戦前 古い穂高神社の写真

オークションで戦前の穂高神社の絵葉書を入手しました。
撮影年月日は記載されていませんが 
屋根は輝いていて柱なども白くきれいなので、建てたばかりのような印象をうけますが、、、

以前の拝殿建て替えは明治21年(1888年)あたりという情報があるのですが
説明書きを詳しく見ると 住所が穂高町になっている事、最寄り駅として大糸線穂高駅という表記がある事
狛犬が小川大系作のものに見えること、昭和15年国幣小社に列格した記載がある事 など
これらを総合して判断すると1940年~41年の写真かと思います。

1940年(昭和15年)は大糸線国有化、穂高駅の現駅舎完成、小川大系の狛犬設置、穂高神社が国幣小社に列格するなど
それらの記念として作ったのものかと予想します。
戦前ですね。
(明治時代の写真かも?と最初記載しましたが色々調べまして後日記事を修正いたしました)

個人的には現在の拝殿よりも一つ前の拝殿のデザインほうが重厚感があって好きです。
特に屋根のあたり

当時は旅行なんてかなり珍しい事でカメラなんて個人では持っていない時代です。
お土産として絵葉書を売っていたのでしょう。
資料として掲載しておきます。

新品のような旧拝殿


参道入口からの写真

拝殿左側

社務所

絵葉書が入っていた包み紙表紙
デザインに趣があります。

包み紙の裏側
穂高神社についての説明などがあります。




  

Posted by UT. at 2022年06月10日18:14

穂高町夏休みの思い出 その1

令和3年 2021年も8月をむかえた。
東京オリンピックが行われている。

今年のお盆も新型コロナ感染拡大の影響で墓参りに行けないと思うので、子供時代の夏休みの思い出でも書いてみようと思う。

長野県の夏休みは短い
7月25日~8月18日くらいだったと記憶している。

夏休み期間中の1日のスケジュールはこんな感じだ。

・朝5時起床
1人で山方面へカブトムシを獲りに行く

・6時半 穂高神社の駐車場に集まりラジオ体操

・昼まで適当に過ごす

・午後は小学校のプールへ行く

・夕方まで友達と遊ぶ

・午後5時夕飯

・夜は花火をしたりお祭りなどに行く


朝はカブトムシを獲りに行くのが小学生男子の日常だった。
折りたたみ籠のついたジュニアスポーツ自転車にまたがり穂高神社西の踏切を超えてまっすぐ上に向かう。
今の林友ハウス工業がある辺りは民家があまりなく、小さな森が点在していてカブトムシもよく捕れた。
安曇野エリアではクワガタ虫はノコギリクワガタが定番でミヤマクワガタなんかは1年で1匹見れれば良い方だった。
ちなみにノコギリクワガタの事は弁慶と呼ばれていた。

カブトムシ採取から帰ってくるとラジオ体操の時間だ。
ラジオ体操は行かないと母親に叱られた。
穂高神社の駐車場に集まりラジオ体操をする。
この時5-6年生の上級生が電池を入れたラジカセを持参していた。
自分も上級生になった時に自分の自慢のラジカセを持っていくのが嬉しかった記憶がある。

ラジオ体操参加の印にカードにハンコを貰う。
これも上級生の仕事だ。
ラジオ体操後は穂高駅から穂高神社周辺のゴミ拾いなどを行った。
この頃はまだ色々とゆるい時代で道には前日の花火のゴミなどが散らかっていたのを覚えている。

午前中は適当に過ごし 午後にはプールに行く
プールといっても小学校のプール開放だ。
穂高神社の手水舎あたりに集合し、引率の保護者や上級生などと小学校へ向かう。
普段上級生なんかとは交流がないので、このプールの行き帰りの時だけ話をするような人もいた。
主な話題は当時流行していたキン肉マンなど、アニメや漫画の話題だ。
妙に詳しい奴がいたりして「キン肉マン博士」なんてあだ名がついたりもした。

夕飯までは友達と遊んだりして過ごす。
じいちゃんに小遣いをもらって駅前にあった中村屋でアイスなどを買って食べた。
この頃、ポカリスエットやメローイエローなど新発売されたジュースを好んで飲んでいたことを思い出す。

夜はスイカを近所の人たちと皆で外にテーブルを出して食べたり
花火をやったりした。

短い夏休みの思い出です。  

Posted by UT. at 2021年08月02日13:07

穂高駅前周辺 備忘録

国鉄→JR 大糸線 穂高駅
高速道路がなかった時代は安曇野の玄関口、登山者の駅として賑わっていた。

夏の時期は大学生や20代の若者グループなどが観光に訪れていた。

その穂高駅周辺での思い出をいくつか思い出したので書いていく。

駅には昔 「白ポスト」というポストが置かれていた。
これはいわゆる、大人の本の捨て場所だ。

エロ本ポストである。

青少年に有害な書籍はこちらに入れてください みたいな文言が書いてあった。

子供のときは「あの中にエロ本がたくさん入ってるのか!」とドキドキしたものだ。


駅前交差点にあるスプーンアートカフェ(?)は昔はアーバンという喫茶店だった。
建物は同じものだ。
あそこの家のお兄さんがUターンして始めた。
そのお兄さんは30そこそこでガンで他界してしまった。

今でもアーバンのお兄さん、若くして亡くなっちゃったな・・と思い出す。

その隣の田舎家。
昔はうどん店だったと思う。
今は蕎麦も出してるらしい。

田舎家の端にはタバコ屋もやっていて、小さな頃は父親のタバコを買いに行かされた。
「マイルドセブンください」という言葉を覚えた。

タバコ屋は主にじいちゃんがやっていて、とても可愛がってもらった記憶がある。

その田舎家の向かいにはツツイ時計店がある。
今は店は営業していないようだけど看板などはそのままある。
そのとなりは今は民家だけど、そこも喫茶店をやっていた。
幼馴染Hの実家だ。
たしかおじさん(親父さんの弟?)がやっていたと記憶している。

追記:まてろーさんよりツイッターでツツイ時計店横の店名はブルースカイだったと教えていただきました。

その並びで さくら屋という食事処、寺島わさび園、北野屋などがあったが
現在はすべて閉店
道の反対側、松本信用金庫の並びは不二家が残るがセリア(旧ビッグワン跡地)も移転して閑散としている。
建物も取り壊された場所もあり 高齢化なのか後継者不在なのか商業の中心が国道沿いの大型店になっている関係もあって寂しい光景が広がっている。

安曇野市として観光名所である穂高神社周辺をまったく活性化できていない印象です。

  

Posted by UT. at 2019年05月16日12:01

昭和の穂高町 音楽ショップ事情

私の子供の時の穂高町には殆どレコード店がなかった(と記憶している)
ファミリーデパートにもレコード店は入っていなかった。

後にアミーが出来てレコードショップが出来た。

穂高駅前には2001というきれいなお姉さんが経営する小さなレコード店があったのだけれど、時代の流れ的にレンタルCD店に変わったと記憶している。

私が最初にシングルレコードを買ったのが1987年だと思う。
当時レコード店がなく、豊科まで自転車で行って買った。
たしか店名は「オクムラ」だった。(たしかこのあたりだった↓)





時代はレンタルCDが勢いがあって、中学生の私はCDを借りてはカセットにコピーする日々が続いた。
CDを買ってもらえるクラスメートは羨ましかった記憶がある。
(そういえば当時付き合っていた彼女はCD買う派で部屋にシングルCDが沢山あったと思う)


大きなレンタルCD店によく通った(名前忘れました)
今はブックパス安曇野になっているようです。
(こんぽ という名前だったとまてろーさんよりお知らせいただきました)

  

Posted by UT. at 2019年05月12日15:11

穂高神社のニワトリの話


穂高神社を訪れた方たちのブログやツイッターを見ると
「境内にニワトリがいてかわいい」 という意見をよく見ます。

穂高神社のニワトリは20年ほど前までは今の100倍くらいいました。

黒や緑のカラフルな鳥から白い大きな鳥まで沢山です。
(カラフルな小さい鳥はチャボとも呼ばれていました)

小さいながら森で生活しているので、それなりの高さを飛ぶことができました。
高い木の枝にとまっているニワトリが普通にいましたね。

朝になると 「コケコッコー!!」 と大合唱が始まり、穂高駅の方まで聞こえるくらいでした。

話によると、鶏を飼っている農家や個人で、ひよこが生まれてメスは卵を産むから残して、卵を産まないオスを捨てに来た人たちが沢山いた・・との事です。

野生化したニワトリの中には攻撃的で人を襲うものも居ました。
子供の時に白いニワトリはかなり体格もよく大きくてムキムキで、何度か爪で飛びかかられて怖い思いをしたことがあります。

ですが、数年前にイタチが発生して境内のニワトリをほとんど食べてしまったそうで、今は1羽か2羽が残るのみとなってしまいました。


穂高神社といえばニワトリですが、今後いなくなってしまう日も近いのかもしれません。


余談ですが、穂高神社の森はトンビ(トビ)のねぐらになっていて夕方になると沢山のトンビが帰ってきます。
そのせいもあってカラスはほとんど居ません。


穂高神社のニワトリについてのお話でした。



  
タグ :穂高神社


Posted by UT. at 2018年09月21日15:55

穂高町の思い出 その12 学校行事~中学校編

穂高中学校
今は東中になる。
まだ西も東もなく 穂高町には中学はひとつだった時の話です。

中学に入ると最初の大きな行事は 登山。
燕岳に登りました。

登りで具合が悪くなった脱落組は中房温泉に宿泊するようです。
そっちのほうがいいんじゃないか?とも思うのですが
登山をしたらしたで それも格別に良かったです。
何が良いって
星空です。

安曇野はわりと星が見えると思うのですが、普段のそれとは段違いの眩しいほどの星空
まさに宇宙がそこにはありました。

体力のある中学生でも登山はかなりきつかった記憶があります。

2年の時には一泊で小旅行みたいなものがありました。
はっきりどこに行ったか覚えてないのですが
野辺山宇宙電波観測所の記憶があるので八ヶ岳高原辺りでしょう。
特にこれといった思い出はありません。

最後 3年生
一大イベント修学旅行。

京都・奈良の定番コースです。
4人ぐらいのグループに分かれてタクシー貸し切りで観光したと思います。
当時は仏像とか神社仏閣に興味があまりなかったので普通の観光をしました。
中学生に自由行動させたらダメですね。


中学生の時の思い出は 色々とありすぎて
黒歴史でもあり 書けないことも書きたくないこともあり
あんまり語れません。

あっさりと おわります。



  

Posted by UT. at 2016年08月02日15:51

穂高町の思い出 その11 学校行事~小学校編

穂高町の思い出 その11 学校行事~小学校編

私の通った穂高南小学校では普通に遠足や運動会などが行われますが
5年生の時の一泊二日のキャンプと6年生の修学旅行について書こうと思います。

5年の時に須砂渡キャンプ場で一泊二日のキャンプを行いました。
テントを張って薪と飯盒で食事を作りと割と本格的なものでした。

食事はカレーを作りました。
夏なので持っていった生卵が腐ってピンク色になってしまったのを思い出します。

須砂渡のキャンプ場のトイレには幽霊が出る という噂を上級生から聞いていた記憶があります。

当日夜に雨が降ってテントの張り直しなどがあり、けっこう大変でした。
夜中の霧の中を懐中電灯で照らすと ビーム光線のようになって宇宙まで線が届きそうだな・・と思いました。

夜の事しか覚えていません。

一泊するとなんだか大人になったような気持でした。



6年には修学旅行がありました。
行き先は東京。

穂高駅から団体の貸切列車で向かいます。
東京ではバス移動になるのですが 東京以外の横浜山下公園なども行きました。
氷川丸見学をしたと思います。

産まれて初めて見るホームレス(当時は乞食と呼んでいた)にショックをうけました。
港の海も茶色く濁りクラゲで埋め尽くされていてまだ汚かったですね。

最近は絵に描いたようなボロボロの服をきた長い髪の風貌のホームレスはいなくなりましたし
東京湾や横浜港もだいぶきれいになりました。


東京見物は東京タワーなどに行きました。
皇居の二重橋の前で記念撮影をしました。

宿舎は御茶ノ水の本郷だったと思います。
昔ながらの木造の宿でした。
まだそういう宿が残っているエリアですね。

夜は宿から歩いて後楽園球場で野球の試合を観戦しました。
ちょうど東京ドームが外観は完成していておそらく後楽園球場最後のシーズンだったのではないでしょうか?

試合は西武 VS 日ハムでした。
西武側スタンドに座り応援団なども付いて西武の応援です。
自分は西武ファンでしたし 当時は清原、秋山、デストラーデが在籍していた黄金期でしたので かなり盛り上がった記憶があります。
盛り上がっていない向かいの日ハムスタンドの同じ修学旅行生を可愛そうだと思ったものです。
(当時の日ハムは地味なチームでした)
その他色々まわったと思うのですが全く覚えていません。

今はディズニーランドとか行くんですね。

東京ドームには仕事やイベントで行くことがありますが 
後楽園球場での西武戦を思い出します  昭和の思い出です。

次は中学校の行事について書きたいと思います。

おわり


  

Posted by UT. at 2016年06月29日19:36

穂高町の思い出 その10 穂高神社の御船祭り


画像はこちらのブログ記事からお借りしました

穂高町の住民、特に穂高神社周辺にとっては御船祭は特別な行事だと思います。

御舟祭り公式ページ

毎年9月26日、27日に行われる御船祭り。
長野県の真ん中、安曇野の地で船の形をした山車を引き回して行われる祭だ。
その昔 北九州界隈の安曇族が日本海を北上し、信濃川をさかのぼって現在の安曇野に来たと言われているゆえんが
この船の祭りに表れているという。

たしかに自分の風貌は弥生系ではなく堀の深い縄文系だ。
もしかすると先祖は九州の南の方の民族かもしれない。

この御船祭。
子供の時、小学生まではこども船を綱で引くのが主な参加方法だ。
各氏子地域でそれぞれこども船は作り、確か3台だったと記憶しているが
25年前の当時でも船を出せなくなる地域があり1台減った状態だったと記憶している。

こども船には前後にこどもの着物で装飾をする。
片方は男の子、もう片方は女の子の着物だ。
この着物は飾りではなくてその地域の家をまわって借りてくる着物だった。
子供の健康や繁栄の祈願も込められているのだろう。

しかし 御船につけると汚れたりするので年々貸ししぶられる事も増えた。
まあ 扱うのが中学生なので雑さは否めない。

うちのエリアでは
穂高神社を出発し、穂高駅のロータリーを通り、スーパーヤマイチの前の道を上へ上がり
穂高大橋南交差点手前(穂高ゴルフセンターあたり)までお船を引いていき、喫茶店のような店の敷地で休憩をし(おにぎりとかもらった)
その後きた道を引き返して穂高神社に戻る
というコースだった。

今地図を見ると往復約3キロという距離だ。

船の中で演奏するお囃子は2種類ある。
早いメインバージョンと遅い曲だ。

これを交互に演奏するのだが、遅い曲では船を引く速度がぐっと落ち、逆に速い曲では速度も速くなる。
これは陸上の山車だけど、その昔船を漕いで海を移動していた先祖も同じように漕ぎに緩急を付けて体力を調整したり
危険回避時には速度を上げるとか 太鼓や笛の音楽でテンポをとっていたんだろう と古の知恵にも触れた気がした。


御船に乗って太鼓や笛でお囃子を演奏するのは中学生男子の役目だった。

音楽が好きだった事もあり お船にのってお囃子を演奏するのが楽しみだったし
最高にかっこいいと思っていた。

中学に入ると念願のお囃子の練習に参加する。
自分は篠笛を担当したけど、体力のいる大太鼓は交替で行うので叩けるように練習した。
その他の楽器は小太鼓、シャンシャンと呼ばれる金物もひと通り練習した。

当時お囃子の練習は夏に穂高神社境内でやっていた。
神楽殿に太鼓や小太鼓を置き、笛関係は下で座って練習した。

当時の上級生から悪い遊びなんかも教わることもあった。
タバコなんかはここで知った人も多いと思う。

さて、お囃子の練習は連日続き 本番の日を迎える。

1年2年の下っ端はお船の腹(下のドダイのところ)に乗って演奏する。
先頭に陣取って笛をふき、電線を避けるのは3年生だ。

中学3年の時には私は副団長を務めた。
団長は死んでしまった幼なじみのHだった。団長は主に大太鼓をやる。

御船祭の前夜には穂高神社で祈祷に参加する。
団長と私で神主と一緒に本殿の奥に行く。

普段は入れない場所に入るこの時はなんとも言えない神妙な気持になったのを覚えている。


さて、御舟祭本番。
1日目は神楽殿で舞の奉納があったり、祈祷関係が一式とり行われる。
最近では よくわからない太鼓集団が来てパフォーマンスをしたり、出店やイベント会場に人が集まっているだけで
祭りの本質を見ていない客が増えたという。

集客は大切だけど、地元に伝わる本来の祭りの姿を見ないではもったいないと思うのは自分だけだろうか?

こども船の町内引き回しがおわり 穂高神社境内に戻ってきた後、本殿前のロータリーに入る。
その時自分は船の先頭上で、音楽パート的に言えば いわばリード篠笛をやっていた。
鳥居をくぐった時にはなんとも言えない高揚感があった。

その後数回まわった後に退場し展示場所に戻る。

この後は、祭りの本番 大人船同士がぶつかる喧嘩船がありクライマックスを迎える。

大人船2台。
子供船より2まわりほど大きい。
中でお囃子をするのは青年団の大人達だ。

神楽殿のまわりを何度かまわった後 最後は2台の男腹側と女腹側を本殿正面でぶつけあう。
毎年けが人がでるくらい激しいぶつかり合いだ。
指を切断してしまったという事故もあった。

この喧嘩船(子供の時はそう呼んでいたが正式名称は御船奉納と言うらしい)
実際は子孫繁栄、子宝に恵まれるように という男女の肉体関係を模しているのだろう。

この喧嘩船が終わると祭りは終わり安曇野は短い秋を終えて一気に冬へと季節がかわっていく。


中学3年生でお囃子は一旦卒業する。
高校生はお船を作る手伝いくらいはするが 祭りへの参加はほぼ無かった。

自分は高校卒業後上京し穂高町を離れてしまったのでその後 青年団などへも参加すること無く
40代をむかえた。

ここ最近は中学生の数も減りお囃子のなり手が少なく小学生も参加しているようだ。
YOUTUBEで見た動画では篠笛の演奏も子供向けなのか節回しなどが省略された簡単バージョンになっていて なんとも寂しい。

父は定年退職後に穂高人形製作を勉強し、人形作りなどで御船祭りに参加している。

東京のNHKニュースなどでは穂高神社の御船祭りのニュースが流れることもあった。

参加していないとはいえ やはり自分にとって祭りといえば御船祭だ。

完全に大人になった今 もう一度 今度は観客の目線で見学に行こうと思う。


ダイドードリンコ提供の「日本の祭り」という素晴らしい番組がある。
穂高神社の御船祭も取り上げられたのですが
是非再放送をして全国に素晴らしさを広めてほしいと思います。


終わり

  

Posted by UT. at 2016年03月24日11:07

穂高町の思い出 その9 遊び編

まだ穂高町だった時の思い出 その9

今回は遊びについて書きます。

子供の時の遊びというとけっこう年代で違ってくるのですが、私は昭和50年(1975年)生まれなので そのあたりを考慮して読んでいただければと思います。

小学校にあがる前までは何をして遊んでいたかはっきり記憶はありません。
おもちゃでいえば当時の男の子の定番「超合金」あたりで遊んでいました。
超合金

幼なじみのHは超合金を沢山もっていて なおかつガラスケースに綺麗に陳列されていたのを思い出します。
遊んだら元に戻す という感じで私はミサイルとか手とか部品をよくなくしていましたが、Hは全部きれいにしてありました。

小学生になると草野球などをやるようになります。
ワシントングランドや西友裏の公園、小学校校庭あたりでよくやっていました。

西友裏の公園は西武球場と呼ばれていました。

そういった草野球などの他には夏場は川で水遊び、空き地でのキャンプごっこ、穂高神社の裏の森でサバイバルゲームなどをやった記憶があります。

子供の時は駄菓子屋などでかんしゃく玉や爆竹などが普通に売っていたので そういった火薬ものは特に男の子は大好きでした。
ロケット花火を撃ちあうロケット花火戦争をやったり かんしゃく玉を道路にまいて車が通るたびに破裂させたり・・と 
今では出来ない遊びですね。

時代はちょうどファミコンが発売されてTVゲームも盛んにやりました。


穂高町はニジマスの養殖がさかんでしたので大王わさび農場付近の川ではニジマスが釣れました。
本当は遊漁証がないと釣りはダメなんですが子供でしたので 普通に皆釣りをして獲ったニジマスはその日の夕食で食べるという感じでしたね。

たまに高級魚のカジカが釣れると料理屋に持って行って小遣いにした事もあります。


ゲームをやったり 飽きたら外で野球をやったり エアガンで遊んだり プラモデルやZOIDSで遊んだり ラジコンをしたりと
インドアからアウトドア、少々危険な遊びまで ありとあらゆる遊びをやった記憶があります。

まだ時代は昭和でした。
今のように色々と規制もなく(あったのかもしれない)かなり自由に遊べたなあ と思います。

さて 冒頭に超合金をきれいに陳列していた幼なじみHですが、20歳そこそこで亡くなってしまいました。
仕事中の事故でした。

子供の時の遊びや超合金の事を思い出すと 亡くなった幼なじみHの事も同時に思い出します。
Hはもう死んでしまったけど幼なじみであること、友達であることは一生変わりません。


Hともどれだけ遊んだだろうか・・と書きながら色々思いましました。

子供の時の遊びの記憶には 色々な思い出が詰まっているんだなあ・・と感じます。

おわり



  

Posted by UT. at 2016年03月09日18:48

穂高町の思い出 その8 どんど焼き



正月が終わると小正月と呼ばれる期間に穂高町で行われている行事がある。

どんど焼き と呼ばれるものだ。

地域で正月のしめ飾りや門松、だるまなどを集めてタワー状に積み上げて燃やす。
その火で枝に付けた色とりどりの小さな餅(繭玉)を焼いて食べる。

無病息災を祈願するというものだ。

記憶ではおしるこなんかも振る舞われていた。

このどんど焼き。
竹などが燃えるため破裂音など結構激しい。
私を含めた近所の悪ガキは爆竹や花火なんかもこっそり入れておいていたずらをしたものだ。

どんど焼き用に集めてくるだるまの大きさや門松の立派さでその家や店の経済力が子供ながらに感じた。

立派な農家はでかいだるまと門松を出してくれた。

中学生になるとどんど焼きには参加しなくなる。
子供の為の行事といった感じだ。

この どんど焼き。全国的にはどんどん焼きと呼ぶところもあるらしい。
松本地域では三九郎(サンクロー)と呼ぶ。

タワーの作り方や数など微妙に違うらしいが 全国で行われている行事との事だ。

最近では住宅地が増えて、どんど焼きをやる田んぼや空き地が無くなって来ているだろうし
門松やだるまを買う家庭も少ないと予想できる。

いつかは無くなってしまうのかもしれないと思った。

おわり



  

Posted by UT. at 2016年01月06日10:48