安曇野市になる前の穂高町の思い出を書く。
今回は学校について。
保育園から書こう。
穂高保育園というものが穂高商業高校横にあった。
今は病院になっているけど、当時の建物の一部がそのまま残っている。
先生の名前は木下先生だったと思う、後に木曽福島のほうでご結婚され、その結婚式に呼んでいただいた。
ここでは当時 園児に出すお昼ごはんの経費を浮かせるために 野菜だけのような粗末な食事を出していて問題になったらしい・・。
自分が通っていた時の話だ。
保育園の次は幼稚園に通った。
穂高幼稚園は今でも当時のままあるようだ。
黒岩先生という女性の先生が担当だったと記憶している。
さて 小学校に通うのだけれど
当時は穂高町には南と北の2つしか小学校が無かった。
私は穂高南小学校に入学した。
当時はまだ木造の旧校舎があり、理科室などで使われていた。
体育館裏の田んぼは冬季には氷が張られスケートリンクとして使った。
敷地内には小さな山のような物があり、ロープーウェーが設置されていたが、危険との事でいつの間にか使えなくなってしまったのを覚えている。
担任は長瀬先生という男性の先生だった。
この先生は君、さん を付けて名前を呼ぶように徹底していたから、クラスメートを呼び捨てにする事はなかったと記憶している。
毎日終業時に さよなら という先生オリジナル曲を歌った。
先生自身も声楽などを趣味でやっており、自分が音楽の道に進んだのは 長瀬先生に影響されたのかと今は思う。
長瀬先生は4年生まで担任だった。
まあ自宅が近所だったのでそれほど寂しくもなかったように思うが、大人になってからきちんとした挨拶に行っていないのでご存命のうちに顔を見に行こうと思う。
5年生の担任は名前は忘れたがちょっと性格のキツイ女性の先生だった。
長野県では特に何もないとクラス替えをしない。
おそらく何もなければ6年の卒業まで同じクラスだったはずだ。
だが しかし 小学校で一番の事件が起こる。
分校だ。
当時大きくなりすぎた穂高南小学校は自分が5年生の時に西小学校と2つにわかれた。
当然1年から同じだったクラスメートもバラバラになった。
分校した後 6年生の1年だけを別々に過ごして、結局 皆中学で一緒になる。
進学する中学は穂高町で1つ。
穂高中学、今の東中だ。
1学年9クラス~11クラスもあり 今では考えられない巨大中学だった。
私が入学した時は今と同じ新校舎のほか、現在正面の駐車場の場所には旧講堂があり、旧校舎も一部残っていて
映画に出てくるような昭和の学校という一面も味わえた。
当時の制服は新しくなったばかりで上下グレーに赤いネクタイだった。
卒業の時などにもらわれた制服のボタンやネクタイなどは どうなっているのだろうか。もう捨てられているんだろうか・・。
義務教育で通った学校というものは不思議な存在感がある。
大人になると3年や10年はあっという間に過ぎるが
10代の思春期の6年間、3年間はとてもとても代えがたい貴重な時間だったという事だろう。
その後 高校進学をし 小学校から中学までの地元の友達や知人はバラバラになっていく。
松本の高校を選んだ自分は 舞台を穂高から松本へと広げるのであった。
穂高町の学校の思い出 おわり
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